昭和三十九年十一月二十四日 朝の御理解


三年五年の信心ではまだ迷いやすい、十年と新人が続いたら我と我が心を奉れ                                   

三年五年の信心ではまだ迷いやすい、十年と信心が続いたら我と我が心を奉れまつれ、と。三年五年の信心では迷いやすい、十年と信心が続いたら我と我が心を奉れと。信心の言わば究極、我と我が心が奉れる、我と我が心が拝められる、そういう信心と言うか、境地を目指してからの信心でなからなければならない、と。
兎に角、目指しがそういう所に置かれないと、本当に問題が問題になり、問題が難儀という事になる。そういう所を目指してからの信心、めぐり果てた心を拝む事は出けません、清めた上にも清め、研いた上にも研いたもの。同時に、三年五年の信心では迷いやすいとおっしゃる。自分の心の中に迷いが生ずるような、そんな心を自分で拝めるはずがない。確信である。絶対自分の心を拝むという事、拝ませて頂けるという事、十年経ったらとこうおっしゃる。という事は、私は十年信心しよれば自分の心が拝める、という事ではないと思う、そこに焦点を置いてからの十年だと私は思う。
そこで、お互い信心の稽古をさせて頂くのですけれども、昨日、おとといでした、伊万里の池田さんと言う婦人の方が、お知らせを頂いておりますのに、三日間続いて同じような、所謂、こう我が心が神に向うて行くと言うか、言う姿とでも申しましょうかね、そういうものを頂いておられるのです。所謂、我が心を拝ませて頂けれるような、おかげを頂くための信心の一つの課程と言ったような。
初めの日はね、ご神前にはっきり椛目のお社を頂いておられる。二日めには、かいひがある所、ご大祭の時に扉が開くでしょうね、おくところを頂いた。三日目には、そのお社の中から沢山な神様方というのでしょうかね、白いお装束を着けられた方達が、この階段を下りて見える所を頂かれた。その中に黒衣を着けた、黒衣とは教衣です(私がお月次祭に着けますあれです)を着けた方がおられる、そして、手には硯箱を持っておるところ、その方だけが硯箱を持って降りてこられる、というところであった。
もう、その三日間の間のそうしたお知らせを頂かれて、まあ兎に角、有り難いものを感じておられるわけです。
私共が、神様を拝むとか信心を始めるとか、所謂お社を拝む、すぐには私共の心を開く、私共の心を開いてから神様に向かうて行く、心を開いてからお取り次ぎを頂く、自分の心の中の心を開いて、神様に向かうその時に、神様は、また神様のお心を、おとびらを開い教祖の神様は、そういう境地を柏手神門とおっしゃておられます。(手を打って)こうやって神前に向かって柏手をいたしますと、その柏手によって神様が、自分の心を聞いて下さる。皆さんでも、ご神前に向かわれたら、もう、いうならば、ご神前に座ったら、もう、神様がこちらに向き、姿勢をこちらに向けておって下さるという実感ですか、事実の上には、柏手したら、神様がこうやっておとびら例えばお社から、お社のおとびらが開くというところに一つの課程初めの間、この事一つお願いするためにお参りさせて頂いて、信心はもう一心の玉を研くものぞ、日々の改まりが第一ぞと繰り返し頂かして貰う内に、改まる為に研く為に、こんな事出さなければいけん、自分の心開かなければいけん、そこに神様。また、自分の心開いてからの、いわば胸襟の開いてからの、言わば交流が始まるのである。
三日目には、まあー神格を頂かれた。例えば、先生方と言おうかね、霊様方そういう方達だろうと思います中に、黒衣を着ておるのが私であろうとこう思う。硯箱を持っておると言う事、黒衣と言うのは黒である。こんな事、それこそ恐れ多い。まあーいうなら、それこそ罰かぶると言うような話ですけどですたい私は私なりの一つの格を頂いておる。言うならば、神様とのお付き合いが出来る、まあーいうならば立場に段々おかげを、こう頂いておると思うてくださったらいいと思うです。けども、私は生身を持っておる、言わば、まだその生身としての苦労を教衣です、黒を着ておると言う事と同じに、硯箱を持っておると言うことは、あれは苦労を刷るとこう墨をすってですね、もう苦労をするためではいけない、どういう小さい字でも大きい字でもです、いわゆる信心は手習いと同じ事とおしゃる、まだ手習い中だと言う事。その頃になってまいりますと、本当に自分で自分の心が、段々私は拝めてくれるようになると、こう思う。それを自分の心の中にへきへきとするものを感ずる事もあるかと思うと、また自分で自分ながら自分の心を合掌させて頂く、なんという有り難い事になって来たことだろうかと、形ぢゃない自分の心の上にそれを感ずる。だから、皆さん方、例えば、苦労をなさると言うことが、苦労であってはならのであり、修行である。修行とこう口だけで言うて、やはり苦労を感ずると言う事があってはならない。今この苦労こそ、たくさんすうたろ、たろとかないけん。勿論、どっこん鮮やかにというような字を書けれるような稽古もしなければならん、と同じにです、どれだけ大きな字を書くもです、例えば、たっぷり水をつけられるだけの、言わば墨汁というかね、その苦労の墨のすったのが必要なのである。水茎の後も麗しょうと言うように、小さい字、小さい字を書かして頂くでもです、これが自由自在に書きこなせるだけの稽古を、その苦労のある時ほど出けるのである。
昨日、宮うじんの教会のご信者さん方が、三、四名参っておられました。三名だけ残って夕べのお祭り後のお話を全部テープに、また納めさせて頂きたいと、というてテープ持ってレコードを持って来ておられました。それを繰り返し頂きながらですの、こういうお話を、本当に信心を求めておる誰に彼に聞いてもらいたい、聞かせたいと言うておられましたけれども、昨日のお話は皆さんもご承知のように、信心する者の真の神徳を知らぬこと、と言うだいたいテーマーのお話でした。ですから、そういう例えば、神徳でも求めておる目指しておる人でなからなければ判らない、所謂、有り難いと思わんのです。
我と我が心が拝めれるという事は、私は神徳を目指す信心だと思う。神徳頂く事だと思うそこに、言わば、人間です生身をもっとります、ながらも、私は神様とのお付き合いが出けるくらいなおかげ、まあー大変ぎょうさんな言い方ですけれども、そうだと私は思う。
この方の事を生き神生き神と言うけれども、皆もこのようなおかげが受けられると、教祖がおっしゃっておられる。生き神とはここに神が生まれる事であってと、有り難いなー、何かお願いしとったら、お願い通りのおかげ頂いた時、それも、やっぱり有り難いのだけれども、本当に私は、有り難いなあーと言うのは、それではないと。例えば、硯に墨をする、溜めておる時、いま苦労の真っ最中と言うような時にでもです、普通の人は有り難いと思えないような難儀を感ずる時でもです、有り難いと思えれるような心が、真に有り難いのじゃなかろうかと、私は思うです。
そういうような、お互い信心を目指してもらう信心の稽古させて頂いておりますとです、只今申しますように、夕べの御理解の中にもありましたように、こう言う有り難い世界に住まわせて頂いておるんだと、お生かしのおかげを頂いておると言う事だけでも、有り難いじゃないかと。米一粒、水ひとしずくの中にでも、神恩神徳がみなぎっておるのだと判れば判る程、成るほどと合点がいくのだけれども、さあーだから有り難く思うと言うのであれば、また有り難いと言うておるのでは、まだ本当のものではないと。
有り難いと言うのは、自ずと心から湧いてくるものだ。自ずと自分の心の中から湧いてくるもの、有り難いと言う心が湧いて来よっても途中で汚い所にひっかかったらもう汚い物になっていきよるのである。キーを持って行かなければならない。今日私、ご神前に出らして頂きましたら、もうきれいに、大きな自然石なんですね、自然石が中心にきれいにキーを研き上げられたと言うような感じ。自然石を、それをこう四角にしめ縄を張って有る所をいただいた。そして今日の御理解を頂いた、石と言うのは、心の事だと私思った。
あの人は意志が強いとか言うね。意志が弱いと言ったようにです、自分の心です。例えば、どのような事があっても迷わない、私はこの頃はもう本当に金光様疑うちゃならんけど疑いたいごとある。 迷わにゃおられんごとあると言うようなもんじゃない、どう言う中にあっても神様を信じて疑わないと言う心、しかも、その心がその都度その都度に清められて行くと言う、研き上げられて行きよると言う。皆さんが例えば、信心の稽古をなさっておられる、自分の心の底から湧いて来るようなもの、有り難いと言うものが湧いてくる、その湧いてくる心に私はしめ縄が張りめぐらされなければいけない。もう、これは汚しちゃならん、もうこれを不純なものにしてはならない、あのしめを張るのは、もうあそこに不成やら、ものが入って来ないようにしめ縄が張ると言うことだそうですね。
清められたところへ、また汚いものを、汚いものが入らんようにしめ縄を張りめぐらす。自分の心の中にそうした意味あいにおいて日々です、研かして頂く。頂いたところを有り難いと感ずる、そこに はもうかつがつ、言わばしめ縄張り巡らして、もうここにだけは、ここには不純なものは、不成なものは入れないぞと言うような信心、そして、いよいよ有り難いものを育てて行くと言う信心。そこに三年五年ではまだ迷い易いのだけれども、迷いの心が起こりよったのだけれども、五年七年経つ内にはです、いよいよその清められて行 くしかも、張り巡らされて行くところのそのしめ縄的な精進とでも申しましょうか、そのおかげで自分の心がです、おかげ頂いて行きよる為には、その今、池田さんが頂いておられますように、始めの間は社を拝ませてもろうて、そのお社のかいひがあった時には、自せて頂く、自分の胸襟を開いて、神様に一切合切が、神様に見て頂ける、そこに神様のお心の深い、お心の底を、神様また覗かせて頂ける。神様の思いの底が判らしてもらう時に、有り難いことだなーと言う事になってくる。どのような場合でも、神様にお礼を申し上げなければおられないと言う事になって来る。
その次に、私は神様と、言わば生身を持っておる人間でありながら神様とのお付き合いが出けるくらいな信心が、約束されるのじゃないかと私は思う。生身を持っておられるのですから、教祖の神様が仰るように、教祖の神様が仰っておられるように一生が修行じゃと仰る。一生が修行じゃと仰る一生が、いわば黒衣えお着ておるのであり、一生が硯箱を持っているのでありましょうけれども、それがまた、有り難いと言う事、私は思う。
我と我が心が拝めれると言うことは、ただ今修行さして頂いておる修行その事が有り難いと拝められるような心を持って、我が心が拝まれると言うのじゃなかろうかと思う。三年五年の信心ではまだ迷い易い、十年と信心が経ったら我と我が心を奉れと。我が心を奉ると言うのは、そう言うような、私は心の状態を教祖の神様は仰っておられたのではなかろうかと思うのでございます。                          おかげ頂きました。  1